始めてできた友だちは

幼稚園時代には、すべり台事件はあったものの、いじめに会うでもなく、特に普通に楽しく卒園したように思います。

 

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ただ、友だちと呼べるような人も幼稚園にも、ご近所にもいませんでした。たぶん。

 

私の記憶の中で、始めてできたお友達だと思うのは、小学校の入学して出会ったお二人で、名前は永井さんと竹内さん。二人の女の子でした。

 

どういうご縁かと言うと、小学校は背の順で教室の席やら、決めますよね。私も永井さんも背が同じように小さかったたため、なにかと一緒で、入学式でお手々を繋いで会場に入場したし、また教室でも席が隣どうしでした(当時は二人ずつ並んで座る木の机でした)。

 

そして竹内さんは永井さんの親友で、たぶん幼稚園のころからのお友達だったんじゃないかな。私とは幼稚園は別でした。

 

家の方向が学校をはさんで逆方向だったにも関わらず、学校が終わると三人で校門のところでお話したり、竹内さんとは私の家で遊んだりした覚えもあります。

 

この記憶も分かるのは、当時の私は席がとなりの子とごく普通にお話できて、ごく普通に仲良くなれる、無邪気な普通な子だったように思います。

 

また男の子よりも先に女の子の友だちができたというのもおもしろい点で、当時から男の子は苦手意識が漠然とあったのかもしれません。

 

その後前田君事件が起こります。(つづく)

父がしてくれた話し

ラッドさんの、「子供のころに最も強い影響を受けたおとぎ話や寓話を思い出してください」というフレーズから、小さいころ母に「ロビンソン・クルーソー」を読んでもらった話しを以前書きました。

 

 

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小さい頃、父には本を読んでもらった記憶はありませんが、お話をしてもらった記憶はあります。一番印象に残っているのは、親孝行した息子の話。父親が病になり、鯉が食べたいとの希望。真冬のことで池(川?)が凍っていて、鯉をとることができない。そこで息子は裸になり、水面に横になって体温で氷を溶かして鯉をとった、という話し。溶かすのに何時間かかったかな。

 

その話は、何も「おまえも親孝行してくれよ」というメッセージとしてではなく、自分のことは犠牲にして、国や社会、他の人々を優先する、的なメッセージとして伝えてくれていと印象です。「自分だけのために地球は回っていないんだ」、ということも何回も聞いた記憶ありますから。

 

父の子ども時代は戦時中でしたから、日本中「お国のため」だし、また滅私奉公という価値感も強かった時代だったから無理からぬことと思います。

 

父は、それをただ口にするだけでなく、ご本人も認知症になった配偶者(私から見れば母親)の面倒をいやがるでもなく、最後まで責任もってやってくれました。すごいです。

 

そして私はと言うと、そういう価値感の影響をもろに受け、社会の望む人間になる⇒社会の価値感を優先する、という構図になってしまったと思います。

 

でもそれは父のせいではなくて、社会のせいでもなくて、はたまた私が悪いというわけでもなくて、ただただそういう流れだったというふうに今では思いますし、そんな今までの人生を愛おしく思えますね。

なんだかありがとー。

 

 

探究は続く

ラッドさんの、コアのラインに関する文章の中に,、ライン6について、

 

・ライン6は子どものころ大変に敏感で、それだけ誤解を受けやすい存在となる

・あなたの癒やしの旅は、幼い頃のギフトを目覚めさせることが含まれるでしょう

 

という主旨のことが書いてあります。

 

私はこのライン6なのですが、これを読んで最近は、幼いころの思い出を思い出したり、整理する機会が増えました。

 

前回、幼稚園のころの思い出について書きましたが、

 

 

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これも、上に書いた最近の流れで出てきたもので、自分自身の理解を深めるためにも、今後も機会があればこういう思い出も紹介したいと思っています。

 

ところで、最初の引用したラッドさんの文章にある、「子どものころ大変に敏感」という点に関してですが、本人的には特にそういう思い出はないのですが、以前母親のチャートを出した時、「輝き」の文章に、

 

「あなたは土地や住宅、建物だけでなく、国全体に対してでさえ、深い感受性を持っています。あなたが生活において、それも特に睡眠の仕方において難儀を感じるなら、たぶんそれはあなたが環境的な状態をあなたが感じ取っている結果です。」

「あなたがだれか他の人の家で眠れば、その人の全てがあなたには分かります。」

 

と、今で言うエンパス的なことが書いてあったのを思い出しました。

 

子どものころ、一緒に新宿のデパートなどに行くと、母親はよくめまいなど気分が悪くなることがあり、本人は自分の身体が悪いせいだと思っていましたが(もちろん家族も)、今から思えば回りの人々の影響を受けたエンパス的な症状だったのかもしれません。医者に、自律神経失調症と言われたりもしていたなあ。

 

そんな母親の子どもという意味においても、私も敏感気質を受け継いでいたのかもしれませんが、特に実感はありません。

 

ということで、こういう点も含め、更に探究は続きます。たぶんゆっくりと。

 

 「ライン6の傷の目覚めには時間がかかります。時間の短縮はできません。」

 

それでは!

すべり台事件

幼稚園のころのできごとです。遊び時間にみんなですべり台で遊んでいて、一人が一番上のところから地面に落下し、腕を折りました。細かな経過は記憶にないのですが、その彼を突き落としたのが私ということになったようなのです。

 

「なったよう」と書きましたが、本人には突き落としたという自覚はなく、先生たちにも確証はないようでしたが、どういうわけか私がやったに違いない、ということにおさまったようなのです。その件で強くしかられたという記憶はないのですが、強烈な罪悪感を感じたのを覚えています。ただし、私本人にやったという自覚はありません。

 

やっていなのに、犯人扱いされたこの経験は、容易に私の被害者意識に直結したことは間違いないでしょうし、その後なにかあると自分に責任が及ばないように留意する姿勢に繋がったできごとだったと、今では分析しています。これは私の目的55番の責任転嫁に通じますね。

 

55番という星の下にあったということは、すべり台事件のせいで被害者意識が生れた、というより、もともと持っていた被害者意識の芽を出させるきっかけとして、この事件が起こったと、今では理解しています。

 

このころから計画通りのシナリオが進行していたのですね。順調だったんだね!幼稚園時代の私!

ロビンソン・クルーソー

SQに関するラッドさんの解説を読んでいて、「子供のころに最も強い影響を受けたおとぎ話や寓話を思い出してください」というフレーズに出会いました。

 

原文は

Recall the fairy tales and fables that most strongly impacted you as a young child.

 

訳しながら、

 

子供の頃に読んだ本ねえ、そういえば母親と二人きりのとき、よく本を声に出して読んでくれたな~。なんの本だっけなあ。ああそうかロビンソン・クルーソーだったなあ。

 

と思い出しました。子供向けの「ロビンソン・クルーソー」が本が家にあり、何度も読んでもらったものです。

 

ロビンソン・クルーソー! 無人島漂流記!

 

私のコアにある傷はライン6「分離」、輝きは疎外感を含む59番と、「自分だけ」「ひとり」「切り離された」というニュアンスの課題を受け持つ私ですが、7才までの間に、無人島にひとり取り残されるという内容の本を繰り返し聞いていたのですね。

計画通りで驚きますし、母親も協力してくれていたのですね。うまくできているものです。

 

この経験は分離感だけでなく、「将来何が起こるか分からないからと、将来に備えなきゃ」という思考の原点にもなっているように思います。

 

私のSQは64番で心の闇は「混乱」。“混乱は、論理的思考に頼りすぎた時に起こります”と「遺伝子易経」にありますが、楽しいことだらけの人生に、将来に備えると心配するのが人生と教えられ、混乱し始めたきっかけのひとつとなったように思いました。

 

(今日の私)

というわけで、今日は外仕事はしないで和訳を楽しんでいました。

明日は薪の準備にかかろうかな。年内にもう一回炭焼きできたらいいな。

 

それでは。

周期表

先日、「一度死んでみた」という映画をみました。その中で、主役の堤真一さんと広瀬すずさんが元素の周期表を口にする場面がありました。

 

周期表といっても「すいへーりーべ・・・」と、周期表を暗記する際の語呂合わせでした。こんな覚え方もあるのですね。

 

私は高校時代、この元素の周期表を全部覚えようと努力した覚えがあります。高校一年の時の担任の先生が化学の先生で、覚えることを奨励したため、「覚えねばならない」と思い込み、補欠で入学した私としては、「覚えねば進学できない」というくらいに思い込み、語呂合わせなどに頼らず(こんなのあるとは知らなかった)、毎日少しずつ覚えていったものです。

結局103個全部言えたのは、ほんの2-3日くらいで、すぐに後半は少しずつ言えなくなったように思います。しかし途中のクルプトン(原子番号36)までは、ずっと覚えて、今でも言えます、たぶん。

 

この思い出は、やらなくてもいい努力を「やらなきゃ」と勝手に思い込んで、ずいぶん自分を追い込んだ経験でもありますが、同時にクリプトンまで覚えていたことが、後の大学受験で大変に役に立ったという記憶もあるのです。

 

実際、私の経験では、大学受験の化学の試験で、元素の周期に関するものは、クリプトンまで覚えておけば充分。逆にそこまで覚えていれば、すごく重宝するのですが、あの経験がなければ、そこまで覚えるのはきっと苦労したでは?と思うのです。

また、今ではクリプトンまで言えることが、なにか楽しい思い出を思い出すかのように思えてもいるのです。

 

どんな経験にもプラスに見えたり、マイナスに見えたりと、見かた次第でいろいろあるし、時間と共にそれも変わるものだと、映画を見たあとで思った次第です。

 

なお、以前堤真一さんは、NHKファミリーヒストリーで、父親のことを、無口で何も言わないから、なにも理解できまかった、という主旨のことを言われていましたが、

 

 

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映画のなかでは、ご本人が本音を言わずに娘(広瀬すずさん)に理解されない父親役を演じています。そんな父親ですが、最後には逆に娘に、「口にしないと分からないぞ」的な台詞を言うという、オチが付いていました。

楽しく見えるコメディ-でした。

 

(今日の私)

・今日は帰省するマダムトッシーを那覇空港まで送りました。

・お山に帰った後、明日の炭焼きの準備。今日は天気が良く、明日も大丈夫そうですね。

 

以上

忘れ物

子どもの頃、私も何かを置き忘れることがありました。

 

具体的に覚えているのは、地元の商店街で、買ってもらったばかりの筆箱を、「はい」と渡されて手に持って歩いていたところ、買い物の途中でどこかに置き忘れ、気づいたときには何も待ってたこと。

 

あと同じようにデパートで買ってもらった本を、これも買い物の途中でどこかに置き忘れたこと。いずれもそのまま出てこず、それっきりになりました。

 

そういうことがあると、私は深く傷つき、自分はだめな人間なんだと激しく責めていたように思います。このようなことが続くと、とても生きてはいけないので、もうこのようなことを起こすまいという意識が蓄積され、だんだんと忘れ物を克服したように思います。

 

ですから、何か事前に準備するときは、時間的にぎりぎりにならないように、充分余裕を持って準備しますし、何か忘れていないか何度も確認します。これはみな自尊心を傷つけないようにするために、防衛的に身につけたものだというのが自分なりの分析です

今日はこんなことを思った一日でした。